| かまぼこ |
|
| ろくに行った事のないサークルの仲間に呑みに誘われ、暖簾をくぐった。4人の空気に混じる僕は、丸い枠に無理やりはめ込んだ長方形のようだ。カウンターの端で酒とレバーやモモなんかを口にするだけで、会話をする気にはならない。
「ずぅっとここら辺に住んでるの?」 タケイが話を振ってきた。いや、とだけ答え、一人5歳まで住んでいた町を呼び起こす。背広姿の男性が腕に抱えたコートが髪を掬った。じわじわと店内が黒っぽくなっていく。 右に視線を動かすと、4人とも串を持ちながらこちらを見ている。モリがどんな所に住んでたんだ、と口を開いた。少しこちらを窺うような笑顔だ。お互いのドアをノックする事さえ、いまだにためらっている。中途半端に閉めた糊のキャップに、固まりがこびりついている。いつもならばこんな気遣いに乗る事はないのに、今日は酔っているのかもしれない。ジョッキに澱んだビールを飲み干した。
―実は住んでいた間の記憶はあまり無い。よく遊んでいた友達の顔も飴をねだった駄菓子屋の場所も、思い出そうと手を出すと、泉の底の小石のようにゆらめいて、求めるほどに分からなくなる。水面を荒らしても、余計に位置が定まらなくなるだけで決して手は届かない。唯一はっきりと覚えているのは、引越し当日、車から見たあの景色だ。
このトンネルを抜けたらもう違う街だぞう。運転している父の声はいつもより心なしか高かった。トンネルに滑り込むまでは漠然と抱いていた未知の街への期待は、そのまま住み慣れた町への恋しさに変わる。子供心にもう戻らないと知っていたのかもしれない。シートに噛み付くように振り返ると、眩しい景色が半円状にくり抜かれていた。お正月に出てきたかまぼこみたいだと思った。ふと前を向くと、かっと光が目を射した。あの時の光景は入り口だったんだろうか、それとも出口だったんだろうか。かまぼこはぐんぐん小さくなって、最後はコンクリートが食べてしまった。
新生活は目まぐるしくて、僕みたいなガキには何かを懐かしむ時間など持ち合わせていなかった。嗅いだ事の無いトカイの空気。色とりどりのマンション。はしゃぐ気持ちが、何よりも強かった。が、高校3 年、受験戦争真っ最中、突然あの町に行ってみたいと思った。いや、行かねばと思った。理由はよく分からない。自転車で2時間。善は急げとばかりにペダルを漕いだ。バスも人ごみも雲も抜いた。微分も仮定法もウィーン条約も抜けた。一漕ぎごとに感じる筋肉の動きだけがリアル、青い標識がもうじきだと告げている。
「それで?」 ヨネヤマは持ったままだったネギマの串を思い出したように皿に置いた。僕はひそめく波のような、それでいてコットンに沁み込ませた黒インクのような思いに囚われながら、目を落とした。 「トンネルは、越えなかった。」
思い立ちが唐突であったように、疑問に気付くのもまたそうだった。トンネルに繋がるカーブの前ではたと考えた。数えてみれば13年間訪れなかった地だ。僕の思い描いていた世界が果たしてそのまま残っているだろうか。ゆっくり瞬きをすると、向こうに見えるトンネルが全く違うものであるように思えた。僕はきっとあの町に帰ろうとしたのではなく、かまぼこを欲しがっていたんだろう。追い越した人たちに追い越されていった。筋肉が小さく痙攣を始めている。帰ろう。ハンドルを切って汗をかいたTシャツに風を呼び込んだ。
「うん。」 ヨネヤマは串を再び取った。タカノは、 「何か頼もうか。」 とメニューを開く。その隣でナンコツいこうぜとモリが覗き込む。糊の固まりがぱりぱりと剥がれ落ちる。結局、トンネルは越えなかったと、そこまでしか話せなかったけれど、誰もそれ以上聞かなかった。どの目にも嘲笑や同情はなく、さっきまでの冷えた感情はビールの泡と共に消えていった。
「ビール来たよぅ。」 タケイののんびりした声で店内は再び膨らむ。三度目のジョッキを合わせながら、僕はもう一度かまぼこの風景を思い浮かべた。目をつむれば、そこにはありありとかの日のトンネルがそびえている。もう泉に手を突っ込む事はないだろう。それでも時々ははぜる水音に耳を澄ましていたい。 僕は焦がれ続けている。
| |
|
7月8日(水)23:43 | コメント(0) | 書き散らし | 管理
|