| シャンパン |
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| 焼けた、少し焼けすぎたパンにバターを塗り、マーマレードジャムを無理矢理思考から追い出し、半分に折り畳む。この年で糖尿はまずい。そしてこの炭に近いサンドイッチも、場合によっては将来的に危険なんじゃないだろうか。 ふと思う。僕は健康主義者じゃないはすだけど。
「突然にごめんなさい。驚いたでしょう?」 Mはそう言い、少しだけいいかしら、と付け加えた。僕は部屋がそこまで汚れていないことをちらと確認した後で、 「どうぞ。」 驚きはしなかった。
灰皿には、三角倒立を失敗した煙草の吸殻が倒れこんでいる。こたつの中で、瞬間的に足が触れる。Mはずらす。腕をさする。周りを見回す。物が極端に少なく殺風景だ。細い足は、とても冷たかった。 Mはさり気なく落ち着かない。が、熱帯魚なんかもこちらから手を出すと水草に隠れてしまうので、黙って缶ビールをあおり、雑誌をめくる。 沈黙は時計の針よりも長くて、Mは慌てたようにはしゃぐように、 「私、シャンパンを買ってきたの。ちょっと奮発しちゃったけどね。」 細身の袋をたぐりよせた。コルクは僕が。ぽん、といい音がして、一瞬の間の後炭酸が弾ける。Mは一滴もこぼさぬよう真剣に注いだ。 それでも、またすぐに沈黙が訪れる。サンドイッチ。 マフラーについた雪の結晶のように、小さく、しかし確実に部屋を冷やした。
この服。Mは覚悟と疲労とを浮かべ口を開いた。脇の袋から、あまり楽しくはなさそうに取り出す。 9万6500円。これ、12万4000円。こっちは6万9000円。 大して違いのなさそうな服ばかり。ざっと30万。真意が汲めず値札をつまむ。 「私、病気なのかしら。」
どうしても買わずにいられないの。買う時は店員さんが私の為だけに喋るでしょ?私が一番だって、すごく満足な気持ちになるの。高ければ高いほど。それに、服が袋に包まれていく時、何よりもすっとするのよ。カードだから簡単だし、その時は上司の顔も隣のお節介も忘れられる、神経を使わなくて済むの。ミスも嫌味も何も無いのね。 でも、
Mは、以前と変わらず知的で切れ長の瞳を、少し伏せた。スポーツも勉強も何でもよくできた。今は確か会社でバリバリ働いているはずだ。
買っちゃダメ。買っちゃダメ。買うにしても必要な物にしましょうって、思いながら出かけるのよ。だけど帰りのエレベーターで両手の荷物に気付くの。あぁ、また買ってる。 服なんて欲しくないのに。 立ち上がり窓から外を見ると、ネオンに彩られたキレイな世界が夜を忘れるほど踊っていた。Mもこたつを出た。柔らかすぎるソファに半ば埋もれながら、Mは目を閉じている。寝ているわけじゃない、目を閉じている。彼女の家を縁取るネオンは、どんなに輝いているだろう。
最初はシャツ一枚でよかったの。Mは重い石臼のようにずずともらした。顎は少し上を向いている。生真面目なMの性格が垣間見えた。 ネオンは点滅する。しばらく、背中を引っかく独り言に近い声は、途切れながら続いた。
「ありがとう、聞いてくれて。聞かないでくれて。」 帰り際、少し赤みのある頬でMは笑った。 「僕でよければいつでも。」 Mは左手でコートの襟を直した。薬指に光る指輪を、僕はきっとぽかんとして見ていたのだろう。彼女は苦笑した。 「離せないし、話せない。」 『はなせない』を聞き分けたのはおそらく世界で僕だけだろう。そしてネオン街を彼女は帰る。 「送るよ。」 「いいわ。私、」 Mは一呼吸置いた。 「また買ってしまうだろうから。」 そう言ったMの表情は今までで一番綺麗だった。伝えたい事達が体中を巡り、そのまま胃に沈んでしまった。ドアが閉まる直前の一言は、野菜食べてね。ぱたん。音は時に不条理だ。
2つ、部屋に不似合いなシャンパンは、そろそろやる気を失っている。シャンパンの黄色がかった色味、カーテンの向こう側の街の様でもあり、単に僕の様でもある。こたつの横には預かった紙袋。 サンドイッチはとうに冷めている。諦めて雑誌を読み返すと、さっきは浮いていた文字がようやく紙に貼りついてきた。こたつの電熱部分にひざを擦り、あつ。呟いた。
荷物が少なければ彼女はまた帰り道でも服を買うだろう事を、僕は知っている。 僕らは病んでいるんだろうか。そんな疑問はシャンパンと一緒に口に含んだ。 あとは飲み干すだけだ。
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7月8日(水)23:50 | コメント(0) | 書き散らし | 管理
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