ラジ観察日記
 
かたじけないのかたじけってなんだろう。そんなファーデルさんもびっくりの観察記。いい天気。リンクフリーです☆
 


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東京ホタル

住所の書かれた紙を持ち、ぼんやりと立っていた。信号の真下で、幾たびも過ぎて行く車の群れを眺めていた。長い坂のふもとにいるような、溜め息をつきたい疲労感が重い。お困りですか。声に振り向いたとき、もう一度信号は青になった。
なぁに、話していればたいした距離ではありませんよ。メモを覗き、ホタルさんはふわりと羽を広げた。消え入りそうな羽音が無機質な道をすり抜ける。慌てて鞄を掴み、僕は彼を追った。

「ホタルさんは、」
言いかけると、私は渡辺です。ホタルで、渡辺です。テンポの変わらない言葉が返ってきた。
僕は続きを言いあぐねたまま、額をこすった。さ、林さん。もうじきですよ。ホタルさん――渡辺さんは右に曲がった。


上手な絵ですね。差し出した千円札に疑問符を点滅させつつ、彼は指に止まった。
自分がとても恥ずかしかった。指が冷えるのを感じながら、ジーンズにぐしゃりと押し込む。そして、あっ。喉でも渇きませんか。渡辺さんの返事も待たず、急いでコンビニに飛び込んだ。
果汁5%未満は甘ったるくて、風はぬるかった。

「本当は僕の名前はハヤシではないんです」
言ってから間があった。しまったと思った。妙に喉が渇く。途端に向こうの、相手のいないざわめきが耳に入ってくる。
しまった。しまった。しまった。


東京はやさしいですよ。我に返ると手の甲に渡辺さんが座っていた。目が合うと立ち上がり、炭坑節を踊り始めた。黙って見ていたけれども、その内に堪えきれなくなって笑ってしまう。東京音頭も混じってませんか。あぁ、でも。瞼が痛いのは飲んだものがすっぱかったからだ。
あぁ。
光は溢れるほどでなくていい。



7月9日(木)00:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

音のないあめ

 彼女に伝えたいことがあった。けれども、言葉で表現することはシナモンよりもむせてしまう。若い絵描きは、右手のパレットを眺める。ぽつ。ぽつぽつ。
 そしてそれは、やはり言葉よりもずっと奥底から、湧き上がるように。彼の絵筆は流れる。早く。早く。早く。
 アールグレイの澱みは、くるくるくる。とかき混ぜられているうちに、赤色の傘となって、くるくるくる。やがて彼女を連れてくる。
 記録的な長雨となった季節、絵描きはひたすらに画板と向き合っていた。早く。早く。長靴は、いつも右足が倒れていた。ぽつ。もっと、早く。
 止むことのない雨は、だんだんと彼の中で遠ざかっていき、ぽ。ぽつん。音など聞こえなくなる。そもそもの、存在自体を忘れてしまう。ぽつ。昨日と、今日と、明日が途切れないというのは、時々怖いことでもあるだろうか。毎日は溶かしバターとなって、気づかぬうちに小さくなっていく。じきに、










 背中へ向けた彼女の一滴の声を、雨は土へと押し流した。

絵描きは全く久しぶりに、瞬きをした気がした。彼女のお気に入りである、もしくは、そうであった赤色の傘は、いつの間にだろう。少し渋みを帯びていた。アールグレイが、誰かの代わりにあたたかい香りを立てる。
 ミヤコワスレを描きおえて、絵描きは狭い部屋の中、ぱん。と傘を開く。紫陽花の葉のように、小さな手紙がはらと落ちた。かたん。彼がしゃがむと、それまで向かい合っていた絵が露わになる。傘は、ペンネよりもくる、くるんと回っていた。

絵の中で微笑む彼女の肩へ、するり。何色とも知れないしずくが降りかかろうとしている。



7月9日(木)00:01 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

夏色の嘘

氷がカランと音を立てた。汗をかいた琥珀色が眩しくて、風鈴が情緒深く揺れた。だんだんと大きくなるセミの鳴き声が運んできた生ぬるい風が、微かな塩素の匂いをもたらす。むっとした空気がのしかかってくる。一人分の溜め息。
気付かないうちに傷み始める夏みかん。

夏至も梅雨も大分通り越していた。打ち水の撒かれた道を行きながら、夏みかんを2つ、交互に宙に投げては取ることを繰り返す。酸っぱくなるよ。その声に、途端に唾液腺がぐぐと痛くなった。汗もかかずに、両手にぎっしりと夏みかんをぶら下げて、エイコさんはしっとりと笑っていた。


うまくめくれずにちぎれるばかりの夏みかんに飽きて、べたべたな手のまま畳に寝転んだ。張り付いた前髪の少し先、ぶらぶらと下がる提灯が面白かった。
簾を直すエイコさんの姿に母を重ねていたのか。だらしなく口を開けて、きれいに並べられた甘酸っぱいかけらを待った。仰向けで貪食していると、口角から果汁が零れた。体を少し屈めたエイコさんの、腹の指がそれをすくう。
「         」

私はその指先の意味を知らなかった。



陽炎のような記憶の中に、鮮やかな夏みかんだけがくっきりと形を成す。だけど、唾液腺は凝り固まっていて、私の体重は落ちて、爪に挟まった白皮から漂う香りさえも分からなくて、そんな言葉の群れに、ぐずぐずと述語は固まらなかった。



静かに肯くエイコさんの動作を、続きを促されているかのように感じてしまった。際限なく、リユウを並べ立てた。刺された肘のかゆみなど忘れていた。いつの間にか私は立ち上がっていて、そして一度付いた導火線は止まらなかった。いつも極端に口数が少ないと言われてきた。オレンジを搾るように、溜まっていたものを全部出すことで、「自分が」楽になりたかった。別に誰でもよかった。
「だから、」
強い語調で吐き出した接続詞を、エイコさんはそっと制した。


遠雷が呼んでいるのは、夕立ち?それとも、私?
本当はみんな言い訳なんだって知っていた。冷凍庫のみぞれをいくつもいくつも食べ続ける。追いかけるようなアブラゼミの鳴き声を背景に、ひたすら、ひたすら。夏みかんを買いに行かなくちゃ。しゃくしゃくしゃく。何のためにでもなく食べなくちゃ。しゃくしゃくしゃく、しゃく。何も思ってない、何も思ってない。しゃく。しゃくしゃく、きいん!痛さで涙が出るまで流し込んだ。みぞれって甘くないんだっけ?
倒れて少し高くなった天井をあの日と同じように、大の字になって眺めていた。
ぐるぐると回っているのは視界か、思考か。



―嘘よ。…ちょっとだけ。―




最後の一言と、うまく立ち消えてくれない無色の笑顔を、そっと引っ張り出してみる。



7月9日(木)00:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

テトルさん

お茶の匂いがすればそれは、テトルさんのお店です。

ドアの鐘が鳴るのを、テトルさんはとても楽しみにしています。お客さんは毎日来るとは限りません。それでも、アイロンのかかったテーブルクロス、瑞々しい一輪草、柔らかい日替わりケーキ。いつだって角のお店の中は、ぴかぴかに仕上がっています。
木製の椅子に座れば、温かいおしぼりに、背中からこぽぽ。お茶の香りが漂います。

小さなお客様は、随分としょんぼりしているようでした。窓の外では、ざぁざぁと滝のような雨も降っています。テトルさんは何も言わず、銀色のフォークを取り出しました。

お客様ははっとして顔を上げました。卵がふんだんのシフォンケーキと、ゆらゆらと湯気の上るアールグレイ。テトルさんは背中を向け、窓に油をさしています。
足と椅子の間に挟んでいた手を、お客様はそっと伸ばしました。


かけらもクリームもすっかりすくわれた頃、テトルさんは大きく伸びをしてから、窓を引き上げました。雨は間もなく止むでしょう。


こぽぽ。2杯目のお茶を淹れれば、目が合った二人はにっこりと笑います。



7月8日(水)23:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

おじさん

おじさんは、「おじさん」であり、「おじ」さんでもあるので、誰からも陽だまりの響きを込めて、おじさんと呼ばれています。

一軒ずつかかとの擦り切れそうな靴で回り、消印の付いた表をするりと落としてやります。多少の間違いがあっても、翌日きちんと届きます。顔を拭き拭き家に戻った村人達は、少しのかすれも無い消印を見て、熱いお茶を用意したくなるのでした。

2,3 日に一片、ぱららと届く束の紐を外しながら、おじさんは時々眩しそうな顔をします。名前の最後に様、と書き終えるときのかすかな緊張と、投函するときの淡い喜びとに気を遣いながら。かちゃ、どすん、ぱさり。また、きれぎれくらいにしか聞こえない歌を、口ずさむこともあります。そのくせ、奥さんが料理を運んできてくれる音がすると、どすんどすん。大きな音を立ててはんこを朱肉と手紙の間で往復させるふりをするのです。

今日の分を、かちゃ、どすん、ぱさり。この青いのは、角の三角屋根の家へ。かちゃ、どすん、ぱさり。花柄は坂の上のおばあさんに。働き始めた頃より目と手元を離しながら、宛名を大事にゆっくりと確認していきます。絵はがきの後、ふとおじさんは手を止めました。随分と恥ずかしそうに畳まれたむきだしの白い便せんに、おじさんの名だけがありました。腕をぎゅっと伸ばして短い言葉を辿る表情は、今までで1番眩しそうでした。


おじさんより少し遅れて帰った奥さんは、瞬きをしないようにしました。新品の、分厚くて丈夫そうななべつかみ。たった1つ、内側に押された消印に乱れはありません。きっと今夜の夕食はシチューです。
手紙は、切手が無くとも届きます。



7月8日(水)23:58 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

ひび

呑み過ぎて、地面がふわふわしていた。タクシーの運転手に何とか金額を払ったが、いくらだったのかは覚えていない。

マンションのエレベーターで、一方的になじられている女性となじる男性と一緒になった。いや、なじっていたのは女性の方だったか?黒か茶色の髪だった気がする。眠気に加え、吐き気も迫っていた。
5階にふらつきながら戻ると、郵便受けに朝刊と夕刊が挟まっていた。引っ張り出した拍子に何か広告を落としたかもしれないが、明日でいいと鍵を取り出す。視界が回転していて中々鍵穴に入らなかった。

目が覚めてみると、既に白っぽい朝を迎えている。着たまま眠ってしまったらしい春物のスカートがしわだらけになっていて、がっかりしながら体を起こす。右にきぃん!という鋭い痛みが走り、そのあと不定期にずきんずきんと後悔の信号が襲う。ソファから確認する。7時か。ポケットの違和感の正体は、なぜか入っていた漫画喫茶の割引券だった。
あー、会社。のろのろと立ち上がって、水道水を一杯。その間にも頭痛はひどくて、よろけてテーブルに手をついた。ちょうど昨日ほっぽり投げた新聞に乗ってしまい、ばさばさばさ、どすん。勢い余って椅子に上半身だけ預けるようにして滑った。もう、なんで新聞。睨みつけると、大人しく新聞は折れた記事を載せていた。
―餓死する子供 4秒に一人―
4秒、というのがぴんと来ない。多いのか少ないのか。いや、やっぱり多いのかな。とりあえず、戦争はだめだよ。どうか天国でおいしいもの食べてね。と心の中で思った。

この芳しくない体調で会社に行くのはかなり憂うつだけど、最近課長は奥さんと仲がよくないらしい。機嫌が恐ろしく悪いので、遅刻も欠勤もまずい。ぞんざいに花に水をやって、また頭がずきんと鳴った。

朝食は抜かない事。母の言葉にこんな時でも縛られる。目玉焼きでいいか。
フライパンの縁で2度目のひびを入れようととし、記事の見出しがふと甦った。この卵一個も食べられない子もいるんだよね。少し、握ってみた。






大変、課長に怒られる。食べかけの左目の黄身をごみ箱に落として、私は化粧道具を広げる。



7月8日(水)23:57 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

さらば愛しき受信料

「今日はどうでした?…あ、缶コーヒーでいいですか」
「あぁ、割によかったよ。…すまんな」
「私も今日はうまくいきました」
「おや。よかったじゃないか。結構とれたのかい」
「えぇ。こんなによかったのは久しぶりです」
「確かにな」
「でも1軒、犬を飼っていて、ちっとも入れてもらえませんでした」
「あぁ、犬か。やたらめったら騒がれちまってろくに仕事もできねえ」
「そうですよね。そんな時は諦めるしかなくて」
「俺もこの間、長い事気にしてた家からやっと、だよ」
「あぁ、あの豪邸ですよね。大変だったでしょう」
「えらく骨の折れる仕事だったよ」
「でもさすがですね」
「言われるほどのもんじゃねえよ」
「ご謙遜を」
「はは。ところでお前さん、どの位回れたんだい」
「ええと。6軒伺って、4軒から頂きました」
「ほう!そりゃあ成功と言えるだろうな」
「ありがとうございます」
「やっぱり俺も年かね。大分がた来てるんだ」
「そんな。若い頃のあなたの仕事ぶりには誰も勝てないと上司も」
「若い頃は、だろ。最近はめっきり目も足も悪くなってな」
「もしや…引退するなんておっしゃるんじゃあ」
「はっはっは。まだ現役でやるとも」
「それを伺って安心しました」
「お前さんたちのような若いやつらに教えていないこともまだ沢山あるしな」
「是非ご教授願います」
「元々今日はその目的だったんだろうが」
「ふふふ。ばれてしまいますね、やはり」
「亀の甲より、ってやつだよ」
「では早速お願いしたいのですが」
「なんだね」



「2階の窓からの一番確実な侵入方法を」



7月8日(水)23:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

空き缶

「もう!お父さん、切った爪はちゃんと捨ててくださいな!」
母の声に、父はよく分からないうめき声を出してごまかした。新聞を抱えて、既に聞く耳を持たぬ体勢に入っている。毎日繰り返されるこの光景にも嫌気が差して、ドアを後ろ手に閉めた。そうだ、新しいクラスの越野君って、もしかして小学校のときの越野君かな。顔似てたよね。小学校の卒業アルバムって押入れだったっけ。肩越しには、使った楊枝も放っておかないで下さい!まだ母の感嘆符が続く。


押入れじゃなかったんだろうか。大分ごそごそやっているのだが見つからない。奥まで頭を突っこむと視覚がきかなくて手探りになる。左手が何か掴んだ。紙の感触ではなくて、ひんやりとした円柱状のもの。頭を出すと同時にそれも引っこ抜いた。からんからんと音を立ててお目見えしたのは大量の空き缶。しかも一個一個が紐で繋がっている。なんなのこれは?知らない飲み物ばっかりだし。底に記されていたはずの賞味期限はかすれている。

「お母さん、小学校の卒業アルバムどこにしまったか覚えてない?」
「うちにあるアルバムは全部まとめて引き戸のところにあるわよ。…あら、懐かしいもの出したわねぇ」
芋のようにぶら下げていた缶の束を、母はしげしげと眺めた。私はその顔と右手に交互に視線を動かした。懐かしい?確かに古いけどただのがらくたでしょう?

「今はあまりしないかもね。母さん達の時はね、結婚式の後車に空き缶をぶら下げてこんな素敵な人と結婚したのよー、なんて町中に自慢して回ったのよ」
掃除していた手を完全に止めて、母はうっとりと目をつむった。そんな意味があったんだ。私も目を閉じてみた。ぱさり、背中で新聞をめくる音が聞こえた。


やっぱり越野君は、あの「冬でも短パンTシャツの越野君」だった。そして4冊隣にあったアルバムには、今よりずっと若くて細い2人が、にっこりと腕を組んでいる。


「もう、お父さん!玉ねぎこっそり残すのやめてくださいな!」
相変わらず母の声に父は新聞を広げるけれど、なんだか、なんだかね、押入れの隙間から、二十数年分以上の何かが溢れているような気がしてるんだ。



7月8日(水)23:56 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

ファルおばあちゃん

村長さんの元へ素敵なウールセーターを届けに行ったファルおばあちゃんの帰りを、村を出ていた息子達が待っていました。3人は、木杖をつきつき坂を登るその背に、そっと手を当てるのでした。

母さん。長男の傍らに、橙色がぽうぽう、と灯ります。もう5人も暖めなくてよくなったものですから、申し訳なさそうに、まどろむように燃えるだけです。ぽうぽう、ぽう。
弟達が運んできた茶色い箱の中身は、真白なぴかぴかのストーブでした。
どうだい、裏まで薪を取りに行くのは堪えないか?


ファルおばあちゃんは壁の絵の向こう側を探しました。豪雪の朝。いたずら。対の手袋。ホットミルク。下がる目尻。いつもストーブがありました。ごうごう、或いはこうこうと。6つの目の優しい懐かしさに、ファルおばあちゃんはにっこりと微笑みました。

明け方の下り坂、穏やかに我が子を送る母親が立っています。そして麓で幾度も揺れる3本の腕は、ファルおばあちゃんには見えませんでした。


部屋は少し冷えたようです。
チャコールの毛糸で手袋を編み始めたファルおばあちゃんを暖める、ぽうぽう。ゴーゴー。2台のストーブが並びます。



7月8日(水)23:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

村長さん

村長さんは村の端っこに住んでいました。村長さんはいつも東を向いてデッキチェアに腰掛け、笑っていました。村人の些細な困り事や穫れた野菜のお裾分けだとか、子供達が遊びにきて窓を叩く以外、家の周りはずっと静かでした。それでも、村長さん。声をかけたときの温かく柔和な笑顔が村人達は大好きでしたので、一日中静かな日、というのはありませんでした。

村長さんは村の端っこに1人で住んでいました。村長さんはいつも1人分の食事を作り、1人分の布団干しをして、1人分の薪をくべます。理由は分かりません。村人も聞きません。けれど、時に無邪気な子供は尋ねます。そんちょうさん、およめさんはいないの?そんちょうさん、大きいおうちにすまないの?そんな時、村長さんは黙って笑って抱きしめて、きっといい子いい子をするのでした。


村人達は気付いていました。時々村長さんが花柄のカップにお茶を注いでいること、小さな写真立てを手に、向こうを見つめていること。それよりも村長さんが今笑顔でいてくれる方が大切だということ。いつだって笑顔を絶やさず、村長さん。窓を叩き、村長さんが写真立てを伏せるまで待つのでした。


村長さんは村の端っこに1人で住んでいます。ですが独りではありません。
今日も村長さんの家の窓は、こんこん。優しく震えます。



7月8日(水)23:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

滞留

青年は肩を落とし歩いていた。強い日差しが背中に蓄積する。あと2社かぁ。ぽつと呟いて、さらに肩を落とす。見慣れない帰り道を着慣れない上着片手に行く青年は、どこか頼りなげ。体育会系だった頃が嘘のようだった。

缶コーヒーでも、と辺りを見渡し、傍の公園に自動販売機を見つけた。新品の革靴が右へ向く。随分古びた印象の公園だが、緑は若々しい。ここのところ書類と下ばかり見ていた目に新しくて、赤茶のベンチに腰を下ろそうとし、
てやめた。左に傾いた看板にかろうじて読める文字で ―貸しボート― とあった。青年はじわりと嬉しくなり管理人の男性の手に硬貨を2枚落とした。少し考えて、缶コーヒーも握らせた。

たぷん、ぎっ、とぷん。穴場かな。大きな池に浮かぶのは舞っていた葉と待っている青年だけ。ちゃぽん。たった10cmの隔たりを越えて水と一つになっていく。いい天気だなぁ。たぷん、ぱしゃん。
ネクタイはもういいか。
気持ちいいなあ。
ふ、わあぁ。
ちゃぷ。



どれくらい経っただろう、青年の耳が呼んだ。鳥のさえずり、葉ずれ、耳元の水音。さむ。まだ少し肌寒くて、弓をはじくような震えに、気だるく左目から開ける。
眩しい光が目を射し、思わず右手をかざした。その指の間から暖かい光がもれて、ふつふつと溜まっていく気がする。広い空の下の高い木々の下の古い公園の中の丸い池の上に葉が一つ。うんとうんと伸びをして弧を描く鳶を追う。

頑張ろう。まだ2社あるじゃないか!青年は勢いよく立ち上がった。










数秒後、激しい水音と共に鳥が一斉に飛び立った。



7月8日(水)23:51 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

シャンパン

焼けた、少し焼けすぎたパンにバターを塗り、マーマレードジャムを無理矢理思考から追い出し、半分に折り畳む。この年で糖尿はまずい。そしてこの炭に近いサンドイッチも、場合によっては将来的に危険なんじゃないだろうか。
ふと思う。僕は健康主義者じゃないはすだけど。


「突然にごめんなさい。驚いたでしょう?」
Mはそう言い、少しだけいいかしら、と付け加えた。僕は部屋がそこまで汚れていないことをちらと確認した後で、
「どうぞ。」
驚きはしなかった。

灰皿には、三角倒立を失敗した煙草の吸殻が倒れこんでいる。こたつの中で、瞬間的に足が触れる。Mはずらす。腕をさする。周りを見回す。物が極端に少なく殺風景だ。細い足は、とても冷たかった。
Mはさり気なく落ち着かない。が、熱帯魚なんかもこちらから手を出すと水草に隠れてしまうので、黙って缶ビールをあおり、雑誌をめくる。
沈黙は時計の針よりも長くて、Mは慌てたようにはしゃぐように、
「私、シャンパンを買ってきたの。ちょっと奮発しちゃったけどね。」
細身の袋をたぐりよせた。コルクは僕が。ぽん、といい音がして、一瞬の間の後炭酸が弾ける。Mは一滴もこぼさぬよう真剣に注いだ。
それでも、またすぐに沈黙が訪れる。サンドイッチ。
マフラーについた雪の結晶のように、小さく、しかし確実に部屋を冷やした。


この服。Mは覚悟と疲労とを浮かべ口を開いた。脇の袋から、あまり楽しくはなさそうに取り出す。
9万6500円。これ、12万4000円。こっちは6万9000円。
大して違いのなさそうな服ばかり。ざっと30万。真意が汲めず値札をつまむ。
「私、病気なのかしら。」


どうしても買わずにいられないの。買う時は店員さんが私の為だけに喋るでしょ?私が一番だって、すごく満足な気持ちになるの。高ければ高いほど。それに、服が袋に包まれていく時、何よりもすっとするのよ。カードだから簡単だし、その時は上司の顔も隣のお節介も忘れられる、神経を使わなくて済むの。ミスも嫌味も何も無いのね。
でも、

Mは、以前と変わらず知的で切れ長の瞳を、少し伏せた。スポーツも勉強も何でもよくできた。今は確か会社でバリバリ働いているはずだ。

買っちゃダメ。買っちゃダメ。買うにしても必要な物にしましょうって、思いながら出かけるのよ。だけど帰りのエレベーターで両手の荷物に気付くの。あぁ、また買ってる。
服なんて欲しくないのに。
立ち上がり窓から外を見ると、ネオンに彩られたキレイな世界が夜を忘れるほど踊っていた。Mもこたつを出た。柔らかすぎるソファに半ば埋もれながら、Mは目を閉じている。寝ているわけじゃない、目を閉じている。彼女の家を縁取るネオンは、どんなに輝いているだろう。

最初はシャツ一枚でよかったの。Mは重い石臼のようにずずともらした。顎は少し上を向いている。生真面目なMの性格が垣間見えた。
ネオンは点滅する。しばらく、背中を引っかく独り言に近い声は、途切れながら続いた。



「ありがとう、聞いてくれて。聞かないでくれて。」
帰り際、少し赤みのある頬でMは笑った。
「僕でよければいつでも。」
Mは左手でコートの襟を直した。薬指に光る指輪を、僕はきっとぽかんとして見ていたのだろう。彼女は苦笑した。
「離せないし、話せない。」
『はなせない』を聞き分けたのはおそらく世界で僕だけだろう。そしてネオン街を彼女は帰る。
「送るよ。」
「いいわ。私、」
Mは一呼吸置いた。
「また買ってしまうだろうから。」
そう言ったMの表情は今までで一番綺麗だった。伝えたい事達が体中を巡り、そのまま胃に沈んでしまった。ドアが閉まる直前の一言は、野菜食べてね。ぱたん。音は時に不条理だ。

2つ、部屋に不似合いなシャンパンは、そろそろやる気を失っている。シャンパンの黄色がかった色味、カーテンの向こう側の街の様でもあり、単に僕の様でもある。こたつの横には預かった紙袋。
サンドイッチはとうに冷めている。諦めて雑誌を読み返すと、さっきは浮いていた文字がようやく紙に貼りついてきた。こたつの電熱部分にひざを擦り、あつ。呟いた。


荷物が少なければ彼女はまた帰り道でも服を買うだろう事を、僕は知っている。
僕らは病んでいるんだろうか。そんな疑問はシャンパンと一緒に口に含んだ。
あとは飲み干すだけだ。



7月8日(水)23:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

赤白

昔々、とんと昔。お偉い方から民に来る日の為にお触れを出されたと。
「我々を表するものを考えてきた者には望むものを一つ叶える」
お侍さんに限らず、商人から農民、子供まで誰でもよかったそうな。お触れを見た者たちはこぞってうんうん唸り始めた。


これには農民の喜兵衛も飛びついた。生来怠け者の喜兵衛。鍬など三回振って一回休み。かかしを直してくると言っては寄りかかって寝息を立てる、今日は自主休業だと言っては賭け事に出かけ。村の人たちは、
「ぐうたら喜兵衛、寝んぼ喜兵衛。」
とはやし立てたと。
そんな喜兵衛じゃ。
「田んぼ仕事なんてやってたら思いつかない。おいらはお侍さんにしてもらうんじゃ」
働き者の女房を置いてなけなしの銭を掴んで、一人飛び出してしまったそうな。

喜兵衛はそりゃあ喜んだ。重い力仕事もなくなって、好きなところへ遊びに行けるからの。団子屋の軒でおなかがぱんぱんになるまで食べよる、とっくりを何本も空け、博打にも手を出して、ほんにやりたい放題。なんでも好きなようにできて、これがおいらの道じゃなんて、思っとった。

ところがね、肝心の象徴は、とんとできなかった。そりゃそうじゃ。遊びたいだけ遊んで他のことなどちいとも考えなかったからの。いよいよ袋の中身がすっからかんになって喜兵衛は慌てた。こりゃお侍さんになる前に干上がってしまう。食い逃げやお賽銭泥棒までして、うまくいった時はいいけども、見つかったら頭がこんなになるまではたかれたり、いやぁ大変だったそうな。仕事もやってはみたけども、下手だし長続きしないしで、やっぱり袋は何の音もしなかったと。
喜兵衛、ある夜お月さんの見てる川原でおいおい泣き出した。腹減ったよう。こんなことなら田んぼ仕事をやってるほうがずぅっとましじゃ。まん丸お月さんの中に女房が写ってるようにも見えたとな。川原はちべたくてちべたくて、寝られやしなかった。


走っての、喜兵衛は走って家まで帰ったそうな。道でなってた実をもいで食いつないで、大急ぎで走った。村が見えたらば一面青々としていての、垢だらけの顔もほころんだ。
「帰ったど!」
喜兵衛は大声を張り上げた。洗濯物を干していた女房も飛んできて、喜兵衛の帰りを喜んだ。
十何日振りの風呂から出てさっぱりした喜兵衛の前に飯の支度がしてあった。女房一人ではどうにも田んぼも耕しきれないからの、粗末な食事だった。白飯に梅干がちょんと乗っているだけ。味噌汁の具も大根しかなかったと。しかし茶碗と箸はのっぺりした真っ黒で、部屋はほんのり薄暗くて、ゆらゆら上る湯気がどんな飯よりも美味そうに見えた。
求めていたものとはこれだった。
喜兵衛は肩を震わせ茶碗を両手で捧げた。
「いただきます」

しばらく後、その国は旗に米と梅干を描くようになったそうな。

喜兵衛はどうしたかって?それからはすっかり心を入れ替えて、村一番の働き者になったということじゃ。


おや、寝入ったみたいだね。熱も少し下がったかいの?どれ、手ぬぐいを替えてこようか。



7月8日(水)23:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

祈り

マリア様。あなたの幸せが誰かの幸せを思うことだと言うならば、私はあなたの不幸せを心の底から望んでやみません。

どうかあなたの願いが叶いませんように。



7月8日(水)23:48 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

ポケット

「このポケットはどんなにたくさんでも大きなものでもしまっておけるのよ」
おしゃまな女の子は可愛らしいポシェットの外ポケットをぽんぽん叩いてみせました。
「ティッシュ、靴下、ひまわりの種、お菓子の袋、消しゴムにボタン。ブラックホールなんて目じゃないね」
「あったわ。お誕生日おめでとう、パパ」
パンドラの箱よろしく最後に出てきたのは、一粒の苺味のキャンディーでした。

「このポケットはどんなに沢山でも大きなものでも守っていられる優れもの」
気の強そうな母親は茶色い毛のポケットをたしたし撫でてみせました。
「それなら他の物も入れておかなくていいの?」
「ええ、あなたがいるからね」
しからば自慢の跳躍力で、母親は群れへと戻っていきました。

「このポケットはどんなに沢山でも大きなものでも取り出せる秘密のポケットなのです」
若い売れない手品師は上着の胸ポケットをとんとん触れてみせました。
「鳩でも飛ばすおつもりなの?」
「あいにくと鳩も兎も逃がしてしまったのですが」
はたして100本のバラは新たな家庭の庭に植えられる事になりました。

「あのポケットはどんなに沢山でも大きなものでも飲み込めるすげえやつでな」
無精髭の隊長さんは空の方をゆるゆる眺めてみせました。
「はは、隊長の薀蓄(うんちく)話も聞き飽きましたよ」
「こら上官より先に行く奴があるか。祈りくらい言わせろ。マリー、愛し
空はつとめて青く、小型戦闘機の破片は炎に包まれていきました。

「このポケットは、どんなに沢山でも大きなものでも包んでおける代物なんだ」
初老の男性は薄いベージュ色のコートの外ポケットをひらひら揺らしてみせました。
「あら、例えばどんなものを?」
「2人分の掌なんかをね」
しかして左ポケットは右ポケットよりあたたかくなりました。



7月8日(水)23:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

クリスマス

耳がちぎれそうで唇は乾燥していて、冬なんか嫌いだ夏が恋しいと心の中で悪態をつきながら家路へ向かう。多分夏になれば冬はまだかとぶうぶう言っているんだろうけど、とちょっと反省しつつ、微風の冷たさに、でも夏の方がいいと堂々巡り。なんでイブ前に振るかなあ。マフラーを背中に流し直して、ああ寒い寒い、ハワイにでも引っ越しちゃいたいと馬鹿らしい発想も浮かんでくる。お腹の底に氷を仕込んだように、体の芯から冷えている。

角から飛び出てきた小柄な人影とぶつかりそうになって、うわ、と声を上げた。口を開けたせいで空気が入り込んできた。こんなに寒い中を半ズボンの男の子が走り抜けていく。そうか、今日は終業式か。
ランドセルにおぶわれて帰っていく子達。体操着袋やお道具箱なんかがぱんぱんになってランドセルを困らせている。みんな冬休みの予定で頭がいっぱいといった顔で、わぁわぁ言いながら駆けていく。自分にはいつからこんな純粋な喜びが減ってしまったんだろうと、なんともおばさんくさい考えになり、白い呼吸とため息を吐く。
妙にキラキラした電光掲示板には、わざとらしく自衛隊の活躍、なんていう映像が貼り付けられてあって、黒いつばを吐き捨てたくなる。


どこかから笛の音が聞こえる。これは、なんだろう。あ、もしかして、ソプラノリコーダー?ああ、きっとまた持ち帰れなかった荷物をぶら下げた小学生だな。私も毎年そうだったな、と一人ごちて、やっぱり寒くて歩を早める。懐かしいなあ。
ティー、ティー、ティー、ピー。
あら。高音がうまく出せないようで、何度やっても裏返ってしまう。力入れ過ぎてるんだよ。力抜いて指をきちんと立てて。心の中で伝えながら、ふとそれは大人の考えかもしれないと思った。全力で一日をかっ飛ばしていくこの子達の世界では、サンタクロースでさえそりにターボエンジンを乗っけているかもしれない。トナカイのように鼻を赤くさせて、また怪獣達がばたばた帰っていく。

探検でもするような気になって、本人を音色を頼りに探してみる。


いた。
ジャングルジムに座って、赤いランドセルを背負った女の子だった。低学年位に見える。ランドセルには何も引っかかっていない。熱心に吹いているけれど、どこか危なっかしい演奏だ。子猫の鳴き声のようにそれはか細い。目的は達成したので、もう帰るつもりだった。でも、彼女の周りの、雪の降りそうな雰囲気に吸い寄せられるように、私は声を発していた。
「リコーダー好きなの?」
女の子は少し驚いた表情でこちらを見て、咥えていたリコーダーを離した。
「好きというか。聞こえるように歌っているの。」
話しぶりから聡い子だと思う。大人びた感じだと言ってもいい。
「歌う?吹くじゃなくて?それに、誰に?」
女の子は本当にびっくりした様子で、目を真ん丸くした。白くなるはずの息は見えない。
「歌うって、プレゼントでしょ。これは、みんなによ。」
そう言うと女の子は、もう帰った方がいいわ、これから降るから。と付け足した。まるでお母さん、のような声と12月の寒さで、もう何も考えられない。後ろから響く相変わらずたどたどしい音色が、もう小学生のいないイチョウ通りを繋ぐ。
その音色は意識と無意識の間に入り込んで、私を包んだ。窓にちらちらと雪が触れ始める。懐かしい曲を聞きながら、私はコタツで猫になった。あの曲は、家路という題名も付いているらしい。

遠き山に日は落ちて 星は空を散りばめぬ
今日のわざをなし終えて 心軽く安らえば
風は涼し この夕べ いざや楽しまどいせん
まどいせん…


起きてみると日付はもう変わっている。あのまま寝入ってしまったのだろう、思わずくしゃみをする。何の気なしにニュースをつけた。
―昨夜世界中に響いたソプラノリコーダーの音についてですが、人によって聞こえた曲が違うという証言もあり…専門家の方もこの現象を未だ解明できておらず、誰かのいたずらであるという可能性も…
まさか。どの局でもこの話題で情報が錯綜している。世界各地の老若男女が写る。
― 俺はおおスザンナだった。わたしは峠の我が家が。夏は来ぬを。私は黄色いカバンを持った女の人が吹いているのを見たわ。私はトロイカを。僕の見たのは青いマフラーのおじさんだったよ。太った。ダニーボーイ。さらばナポリ。背の高い。子供の。トランブータン。ベージュ。静かな。不思議な。まるで夢みたいな。

確認してみると、確かに目撃情報も聞こえた歌も、まったく一致していない。ところが、あまり上手くはなかった、という事は共通する。キャンベラの友人に電話をかけると、やはり聞いたという。雪降る朝は、音を吸収して、果てしなく静か。二次元に立っているようだ。音を立てるのはお湯を沸かすポットだけ。
―歌うって、プレゼントでしょ。これは、みんなによ。―
昨日微笑んだ女の子の顔は、コーヒーの湯気に覆われて、もううまく思い出せない。もしかしたら誰かの言う通り、夢だったのかもしれない。でも、あの言葉だけははっきりと私の中に積もっている。
あぁ、そういう事なんだ。それぞれ違って感じたのは、当たり前の事じゃない。全部、あなただったんでしょう?

今この瞬間に目を閉じる子も、誕生日が変わってしまったキリストも、募金しながらハンバーガーを食べる人も、美脚を見せてティッシュを配るオネエサンも、最悪のタイミングで私を振ったあいつも、ドボルザークのおじいちゃんも、本当は見えないところで真面目に活動しているだろう自衛隊員の誰かも、母も父も、そして批判ばっかりで自分で行動しない私にも。今日だけは優しくありたい。
Merry Xmas,to you.
きっと、彼女は。



7月8日(水)23:44 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

かまぼこ

ろくに行った事のないサークルの仲間に呑みに誘われ、暖簾をくぐった。4人の空気に混じる僕は、丸い枠に無理やりはめ込んだ長方形のようだ。カウンターの端で酒とレバーやモモなんかを口にするだけで、会話をする気にはならない。

「ずぅっとここら辺に住んでるの?」
タケイが話を振ってきた。いや、とだけ答え、一人5歳まで住んでいた町を呼び起こす。背広姿の男性が腕に抱えたコートが髪を掬った。じわじわと店内が黒っぽくなっていく。
右に視線を動かすと、4人とも串を持ちながらこちらを見ている。モリがどんな所に住んでたんだ、と口を開いた。少しこちらを窺うような笑顔だ。お互いのドアをノックする事さえ、いまだにためらっている。中途半端に閉めた糊のキャップに、固まりがこびりついている。いつもならばこんな気遣いに乗る事はないのに、今日は酔っているのかもしれない。ジョッキに澱んだビールを飲み干した。


―実は住んでいた間の記憶はあまり無い。よく遊んでいた友達の顔も飴をねだった駄菓子屋の場所も、思い出そうと手を出すと、泉の底の小石のようにゆらめいて、求めるほどに分からなくなる。水面を荒らしても、余計に位置が定まらなくなるだけで決して手は届かない。唯一はっきりと覚えているのは、引越し当日、車から見たあの景色だ。

このトンネルを抜けたらもう違う街だぞう。運転している父の声はいつもより心なしか高かった。トンネルに滑り込むまでは漠然と抱いていた未知の街への期待は、そのまま住み慣れた町への恋しさに変わる。子供心にもう戻らないと知っていたのかもしれない。シートに噛み付くように振り返ると、眩しい景色が半円状にくり抜かれていた。お正月に出てきたかまぼこみたいだと思った。ふと前を向くと、かっと光が目を射した。あの時の光景は入り口だったんだろうか、それとも出口だったんだろうか。かまぼこはぐんぐん小さくなって、最後はコンクリートが食べてしまった。

新生活は目まぐるしくて、僕みたいなガキには何かを懐かしむ時間など持ち合わせていなかった。嗅いだ事の無いトカイの空気。色とりどりのマンション。はしゃぐ気持ちが、何よりも強かった。が、高校3 年、受験戦争真っ最中、突然あの町に行ってみたいと思った。いや、行かねばと思った。理由はよく分からない。自転車で2時間。善は急げとばかりにペダルを漕いだ。バスも人ごみも雲も抜いた。微分も仮定法もウィーン条約も抜けた。一漕ぎごとに感じる筋肉の動きだけがリアル、青い標識がもうじきだと告げている。

「それで?」
ヨネヤマは持ったままだったネギマの串を思い出したように皿に置いた。僕はひそめく波のような、それでいてコットンに沁み込ませた黒インクのような思いに囚われながら、目を落とした。
「トンネルは、越えなかった。」

思い立ちが唐突であったように、疑問に気付くのもまたそうだった。トンネルに繋がるカーブの前ではたと考えた。数えてみれば13年間訪れなかった地だ。僕の思い描いていた世界が果たしてそのまま残っているだろうか。ゆっくり瞬きをすると、向こうに見えるトンネルが全く違うものであるように思えた。僕はきっとあの町に帰ろうとしたのではなく、かまぼこを欲しがっていたんだろう。追い越した人たちに追い越されていった。筋肉が小さく痙攣を始めている。帰ろう。ハンドルを切って汗をかいたTシャツに風を呼び込んだ。


「うん。」
ヨネヤマは串を再び取った。タカノは、
「何か頼もうか。」
とメニューを開く。その隣でナンコツいこうぜとモリが覗き込む。糊の固まりがぱりぱりと剥がれ落ちる。結局、トンネルは越えなかったと、そこまでしか話せなかったけれど、誰もそれ以上聞かなかった。どの目にも嘲笑や同情はなく、さっきまでの冷えた感情はビールの泡と共に消えていった。

「ビール来たよぅ。」
タケイののんびりした声で店内は再び膨らむ。三度目のジョッキを合わせながら、僕はもう一度かまぼこの風景を思い浮かべた。目をつむれば、そこにはありありとかの日のトンネルがそびえている。もう泉に手を突っ込む事はないだろう。それでも時々ははぜる水音に耳を澄ましていたい。
僕は焦がれ続けている。



7月8日(水)23:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

北海道

ラジコ
部屋はきちんと片付いて、座っているのは私だけだ。姉は元からきれい好きだったけれど、今日の部屋は思い出一つ残さない位何もない。

姉が、突然
「北海道って、どう思う?」
と聞いてきてから、1年5ヶ月と18日。タカシさんは、私の自慢の姉の心を見事にさらってしまった。新居は出身と同じ、北海道なのだそうだ。
「姉は、寒いのが苦手なんです。そんな遠いところに…」
「大丈夫!夏はいい天気だし、冬でも玄関は二重構造だから!!」
そういうと、タカシさんはからっと晴れた日の大地を思わせる豪快な声で、がははと笑った。
タカシさん分かってない。全然分かってない。
私はなぜあの時腹が立ったんだろう?

床には、幼い頃貼りつけたシールの跡がかすかに黒ずんでいる。がりがりと、思い切り引っかきたくなった。それじゃ足りない気がして、どんどんと踏み鳴らしてやりたかった。

「お土産、送るね。何がいい?」
エステのおかげで更に美しくなった姉が、そっと聞いてくれたけど、憮然として、
「…チョコ納豆。」
可愛くない顔でしか答えられなかった。タカシさんは能天気にも熊のように声を上げた。

不意に甘い香りを感じて目だけ動かすと、髪をほどいた姉だった。そして私の隣にすとんと座り、肩をそっと寄せる。
そんな優しくしなくたっていいよ。明日にはもう行っちゃうじゃない。タカシさんのお嫁さんになるじゃない。無理矢理にひざを痛いほど抱えても、嫌な気持ちがあふれてくるのを抑えられなかった。
「全部持っていっちゃうんだ。荷物運べるの」
自分でも驚く位その口調がとげとげしくて、思わずはっとしたけれど謝れなかった。ところが、姉はさっきよりも柔らかい笑顔になった。
「忘れたくないから、持っていくの。大事な妹は連れて行けないしね」
目を思い切り瞑って、息を止める。言葉は出なかった。
「このシールの跡、懐かしいね。これも運べないな」
噛みしめた奥歯も肩も震えて、細い姉の体をどこまでも強く抱きしめた。ごめん。ごめんね。小さいときによくしてもらった、背中を撫でる仕草を、姉はただ繰り返した。白い恋人でいいんだよね。そう頭の上で微笑みながら。
分厚い流氷は腕を、耳を、心臓を流れて、やっと涙腺まで辿り着いた。

後日私宛に送られてきたのは、20箱以上の白い恋人と30箱以上のまりも羊羹。
タカシさんだ。絶対にタカシさんだ。


こんなに一人じゃ食べられないよ。
厚い流氷がまた動き始めるのを感じた。



7月8日(水)23:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

アイドル

小さくて、ふと目を離したらなくなってしまいそうな喫茶店があった。
からん、と軋むドアを押すと、ふっくらした同年位の女性が煙草を吸って足を投げ出していた。
「おや、いらっしゃい」
二重になったあごを動かして、女性は笑った。 私は茶系統にまとめられた店内に目をやりながら、コーヒー、と言った。のんびりと換気扇が回り、静かに外との空気を隔てている。
あまり客は入らないと見えて、コーヒーはまだ沸かされていなかった。女性の斜め左に向かうように、端から2番目のカウンター席に腰を下ろす。

「突然涼しくなってきたねえ」
そんな他愛も無い話から始まったと思う。何度目かの穏やかな笑いの後、女性の後ろに幾つか写真立てが並べてあることに気がついて、なんですかその写真は、と尋ねた。女性は、ああこれかい、と首を傾けながらその中の一つを見せてくれた。
「昔は私もアイドルだなんだって、もてはやされた事があったんだよね」
そこには、にっこりと笑う、3人の可愛らしい女の子が写っている。
「知ってるかい、      っていう3人組のグループだよ。15,6位のねえ、まぁだ何にも知らないガキンチョでさ。3人とも田舎じゃ結構可愛いなんて言われてて、売れると思ってたんだよね。ところが世の中そんな甘くないだろ?話題になったのはデビューの時位で、CDも3枚出して5000枚。しばらくするとお互い喧嘩も絶えなくなっててね、それっきりさ」
肉付きのよいお腹を揺らせ、喋りすぎたと思ったのか、照れ笑いをする。これサービスね、と言って2杯目のコーヒーを注いでくれた。

「楽しかったよあの頃は。売れなくっても3人で街中を変装なんかしたりさ。追っかけだっていたんだよ。たまにTV出演があると必ずいてね、みんなであたしらの事叫ぶんだよ、LOVE-なんてね。」
当時を思い出したのか、女性は目を細めて時計の秒針を見ていた。そして髪をかき上げながら、私にえくぼを見せた。
「ま、信じるかどうかはあんたが決めればいいさ」


20 年以上前の事だ。私はとあるアイドルグループの一人に、かなり熱を上げていたことがある。トークになると、首をかしげたり恥ずかしそうに笑ったり。同志たちと一緒に指先をあごに当て、何度も声を張り上げた。たまにこちらを見てはきゅ、えくぼを作って笑ってくれる、そんな子だった。


小さな小さな喫茶店。時折ふらりと立ち寄って、ドアを開く。
「おや、いらっしゃい」



7月8日(水)23:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理

きんいろ

魚の鱗に触れ、珊瑚と握手を交わし、時にまどろみながら、波は待っています。
時に激しい淋しさに慟哭しながら、波は待っています。

本人は気付かなかったでしょうけれども、波が生まれてから随分と経ちました。鯨の潮に自らの透きとおる色を知り、降っては広がっていく雨の雫に淡い恋心を抱きました。虹も、水爆も、オーロラも、鴎の羽も、船も、朽ちた老木も、人も、季節もみんなみんな包み込んで、38万kmを、一生懸命思い描きます。

「ぼくもきんいろにかがやいてみたい」

波は、揺れて、揺れて、揺れて、3.8cmごとの孤独へと、腕を伸ばすのです。



7月8日(水)23:41 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書き散らし | 管理


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